昨日の思い出

青梅街道は土曜日ということもあって、乗用車が列をなしていた。
「それでは、発進したら最初の信号を左に曲がってください」
試験官の声が試験の始まりを告げる。
エンジンは静かにうなり、ギアはローに入り、サイドブレーキはおろされ、ウインカーはせわしなく右へ合図を出していた。
残るは、後ろからの車が途切れるのを見計らって、右足をブレーキからアクセルへと踏み換え、左足を緩やかに引き上げるだけ。
問題は、一つ手前の右カーブだった。
カーブのせいで、後ろから車があと何台来ているのか、はっきりしない。
一つ前の交差点で信号が変わり、せっかちな右折車が直進車と歩行者の鼻先をかすめたのがかろうじて見え、続いてその車が私の右横をすり抜けた。
そして、車の流れが途切れた一瞬、検定中の看板を掲げたみっともない日産ブルーバードは、すべるように青梅街道の流れに乗る。
私は試験官の指示通り、左のウインカーを出し、交差点に入った。
歩行者はめいめいのスピードで交差点を渡る。自転車は走りぬけ、子どもは駆け抜け、大人は談笑しながら、老婆は杖をつき、再び自転車が、人が、渡る渡る渡る。
結局、信号が赤になるまで、ゼブラは人のものだった。
交差点を曲がると、その先は30キロ制限の片側一車線道路だ。歩行者も車も少ない楽なコースだ。横断歩道ごとに減速するのを忘れてはならないが、徐行するまでもない。
さらに左折を二回繰り返し、車は青梅街道に戻ってきた。
交差点を右折する。この交差点の難点は、向かいの道路が下り坂なので対向車を見つけづらいこと。うかつに右折すると対向車を妨害しかねない。検定では失点になる。
戻った青梅街道は軽い渋滞になっていた。前のトラックはクリープで牛のようなのろのろとしたスピードを保っている。
マニュアル車にはつらい速さだ。ローでもこの速度でギアをつなぎきったらエンストしてしまう。
やむをえず私は、半クラッチで5キロほどの速度を出したら、すかさずクラッチを切って惰性で車間をつめた。止まったらブレーキ。車間が開いたら再び半クラッチ、惰性、ブレーキ。その繰り返し。
信号が変わったのだろうか、不意に前のトラックが加速した。こちらも負けじと加速する。
ローからセカンドへ、ギアをかえる。さらにサードにしようとしたとき、再びトラックが減速した。こちらも息を合わせて減速する。
「次の信号を右折」
試験官の指示が出る。右折の合図、側方確認、あいている右折レーンに滑り込む。ステアリングをまわす。
入った路地も、渋滞していた。渋滞の只中にある信号のない横断歩道というのは、注意が必要だ。
車の陰から人が出るかもしれない。一見渡る気のなさそうな歩行者が、実は止まっている車を避けて渡ろうとしているだけなのかもしれない。
案の定、おじさんが一人、自転車が二台、車の陰から出てきた。危ない危ない。
次の交差点を左に曲がる。その先は、大きく右にカーブした青梅街道だ。青梅街道との交差点を左に曲がり、三たび、青梅街道へと戻ってきた。
「次の歩道橋のした付近でとめてください」
青梅街道に限らず、大通りで停車するというのは意外と難しい。後続車を邪魔しない速度で、止められる場所を探さねばならない。あまり停車車両の切れ目ばかりに気を取られていると、バス停や駐車場の出入り口付近といった、停車できない場所にとめてしまう可能性もある。
幸いにも、歩道橋の真下に開いたスペースがあったので、私は充分に幅を寄せてそこに停車した。
ここから先は自主経路と呼ばれる課題になる。私は、試験官の指示を受けず、予め知らされていた目的地に自分で決めたルートに沿ってたどり着かねばならない。
再び車の流れの切れ目を見計らって発進する。
自主経路と言っても、コースをゼロから組み立てるのではなく、教習中に教官から教えてもらった「お奨めコース」をそのまま走ればよいだけの課題で、それほど難しいものではない。
私に課せられた自主経路の「お奨めコース」は、二つ先の交差点を左折、二つ先の交差点を右折して5つ先の信号を越えればゴール、というたいそうシンプルなルート。
ただし、油断は禁物で、いつ「お奨めコース」の難易度が上がるかは予想することが出来ない。
例えば、最初の交差点。
私は「お奨めコース」に従って左折せねばならないのだが、あろうことか宅配便のトラックが交差点のすぐ手前で停車している。
左折するためにはトラックと交差点の間、車1,5台分の空間に車を詰め込んで、横断中の歩行者が途切れるのを待たねばならない。間違って二車線にまたがろうものなら、後ろの交通を妨害しまくってしまう。
ゆっくり走ればその程度の針路変更に問題はないのだが、いかんせん後続車が追い立ててくる。さて、距離感とハンドルさばきと足捌きの見せ所。
こういう場面を無事にこなすと、気分が良い。検定中の看板のおかげで、後続車にきちんと車間距離を保ってもらえたのも勝因の一つだろう。
とはいえ、交差点と言うのは関門の一つに過ぎない。
土曜日のために、家族連れが自転車でキャラバンをなしていたり、部活帰りの中高生が群れを成していたりする。
油断は出来ない。慎重に、安全に、迅速に、二つ先の信号を右折する。
右折した先は、片側一車線の早稲田通り。制限40キロ。
こちら側にはいないが、対向車線に停車車両がある。減速して左に寄せ、対向車が通る間隔をあけて通り抜けた。
そして、夢にまで見た目的地。何の変哲もない駐車場の先のガードレールが、どれほど遠く感じたことか。
左ウインカー、減速、停止、ギアをニュートラルに、ハンドブレーキをかけ、エンジンを切る。
完璧だ。と、心の中で自賛する。
そして教官と席を代わり、ようやく自分の失態に気づいた。
エンジンを切った後、最後にギアをローにいれる必要がある。浮かれていてすっかり忘れていた。
合格発表の際、もちろん教官に指摘された。汗顔の至りというやつだろうか。