某学生のつぶやき

昨日の日経新聞をお読みになった方はわかると思いますが、某大学の某教授(ちなみに今日、講義を受けてきました)が「最近の学生は夢を語らない」とコメントしていました。
なるほど、夢のない世の中になりました。夢のない、というよりは夢を与えられて育ち、夢を奪われて生きるようになったがために、夢を作ることを忘れた人たちばかりの世の中になった、といったほうが良いでしょうか。
なんというか、世間様がつまらなくなっているような気がするのです。
私の住む日本という国は、単独では世界第二の経済大国なのだそうです。科学技術で世界の最先端を進み、60年以上も平和を謳歌してきたのだそうです。その豊かさは、スイッチを押せば明かりがともり、蛇口をひねればとめどなく水があふれ、たんすを開ければ服が詰まっていて、冷蔵庫の中には必ず何かが入っているほどです。宇宙から見た夜景では列島の形がくっきりと浮かびあがり、枯れかかった井戸へ片道二時間の旅をすることもなく、着の身着のままテントの中で凍えることもなく、配給のパンを待つこともないのです。もちろん、全員がそういう生活をしているわけではありませんが、仮に一人の人が飢え死にすれば翌日の朝刊の片隅に載るほどの世界なのです。
私の知る世界は、やろうと思えば何でもできる世界です。
では、私は何をやりたいのか。
実はいまだに決めあぐねていたりします。
もちろん、好きだったというのもありますが、私が電気系に進学した理由の一つに、この方面の需要は拡大こそしても縮小はしないだろうというこすっからい判断があるほどです。しかし、いざ具体的に、たとえば卒論で何をやりたいかとかを考えたときに、答えに窮しているのです。
私に限らず、この日本という国には「とりあえず」でベターな選択肢を選んで、次の選択肢が出てから考えるというパターンを繰り返している人が多い気がします。人のことを言えた口じゃないのが悔しいのですが。しかし、猫も杓子もそのような動きしかしなければ、将来に対する明確なビジョンも描けず、自然と行き詰まりを感じてしまいます。今の私がいい例なのでしょう。
かといって、「世界を獲っちゃる」などと大言壮語をすると三文芝居作りに熱心なマスコミがむやみに持ち上げて、挙句にこけた瞬間に手のひらを返してそのまま叩き潰しにかかってきます。傍から見ると、大志を抱くものを不安定な台座に据えて倒れたら「ホレ見ろ言わんこっちゃない」といっているだけのように見えます。つい最近の話だけではありません。私が小学生のころには、華やかなりし「ついこの前」を作り上げたもろもろに対して同じようなことが行われていたような記憶があります。
こういうのを自縄自縛というのだと思いますが、そういうのを見てきたら、夢なんか持たずにこそこそと生きていたほうがマシだと考えることになんら不思議はないのでしょう。
一日一日がそこそこ幸せであれさえすればいい。むやみな冒険をするぐらいなら、今手に入る幸せだけで満ち足りていればいい。


そんなのは私は真っ平ごめんなので、あと二ヶ月ほど大冒険を続けさせていただきます。
引き出しの少なさと、いざと言うときの腰の砕け具合が足を引っ張ってるのは、公然の秘密です。