最終講義

今日は某先生の最終講義でした。並列計算とか機械学習とか、そういったコンピュータの知能についての研究をしている先生です。ジャズピアノが趣味で、今日の最終講義も「最終講義 兼 最初のコンサート」などと銘打っていました。
ピアノは先生が弾くとして、ドラムとベースはMIDI(電子楽器)をJavaで動かしているのだそうです。予めテンポやコードを入力しておくとジャズっぽくアドリブを混ぜて伴奏してくれるのだそうです。
こういった元になる楽譜を渡すと自動的にアレンジを加えて演奏をしてくれるようなソフトウェアは、先生が仕事の合間に作れるくらい簡単なのですが、それもコンピュータの進化が早いからで、ついこの前までは楽譜どおりに演奏させるのですら大変だったわけです。
このように言われたとおりに動く機械から脱皮して、現代ではある程度勝手に動いてしまうものまで作れるようになったわけですが、では知能とは何かという話に移ります。
理詰めで考えるだけならば知能とは言わないわけです。この先生はコンピュータ将棋についての研究も行っているのですが、人間は将棋を指すときに全ての場面でどの駒を動かすか悩むわけではなく、また、悩むにしてもある程度動かす駒の候補は絞った状態で悩むわけです。全ての駒を頭の中で一つずつ動かして、総当り的に一番有利なものを選ぶというのは、理詰めではあっても知能がある将棋指しとは言わないのです。
実際に、プロ棋士の人は「理詰めで考えて迷ったら直感を信じる」のではなく「まず直感的にどう指せばよいのかが思い浮かんで、それが正しいかを理詰めで考える」のだそうです。総当りをするのではなく、当たりを付けて理詰めでそれを検証するというのが一つの知能の定義となります。
こうして少しずつ賢く将棋を指せるコンピュータが生まれてきて、今では人間のプロ棋士にも勝てるソフトができたわけですが、将棋を指すだけが能ではなくて、そのうち十分知的なシステムがでてきます。そういった十分知的なシステムのなかから、人間より統計的により正確な判断ができるようになるモノが生まれるかもしれない。例えば過去の法令、判例をもとに裁判の判決案をアドバイスできる知能があったとします。「人間より統計的に正しく判決を出せる知能が別にあるとき、我々の倫理はそれを受け入れられるか?」という問いが先生の講義の締めくくりでした。