娼年の感想の続き

実は、小説を読み終えたのは今朝でした。
話し半ばにして昨日は感想を書いてしまったわけです。石田衣良さん、ごめんなさい。
ところで私は、本を買う場合解説を読まずに買うことにしています。
私は、解説ほど買う際の判断基準として当てにならないものはないと確信している部類の人間です。
たんなるにぎやかし程度にしか考えていません。
私がその小説を気に入るか否か、それを決めるのは私自身であり、解説の書き手ではないからです。
そもそも、小説をほめるのが解説の仕事であり、つまらない部分には触れないようにしているのだから、あらすじよりも使えません。
買うか買わないかは、タイトルとカバーのあらすじ、そして本文の適当な数ページで決めています。
そして、読了後に解説と私が感じた解釈との相違を比べるのが、私の癖になっています。
結構お勧めです。やってみると楽しいかもしれません。
娼年の解説は姫野カオルコさん。冒頭で一言「小説の筋が命だと思っている人には不満かもしれない」。
昨日の私の日記を姫野さんが間違って読んでしまわれたら、きっとほくそえまれたでしょう。
違いますからね。私は筋命の人ではありませんからね。
少しネタばれが入りますが、私が「スピーディに展開するか挿話をばっさり切ってほしい」と思ったのは、
挿話を読むことによって、主人公への感情移入がずれると感じたからです。
娼夫になった主人公は、序盤から中盤への境目で数名の顧客を相手にするのですが、
いずれの挿話も仕事を成功裏に終わらせたエピソードだったのです。
ところが、中盤になって失敗例があったと思わせるモノローグが入っていました。
ここに、読者と主人公との間に体験の断絶が生まれるわけです。
読者としては、物語の序盤で感情移入する相手を選定し、物語の終盤にかけてまでに必要な情報を得ておきたいわけです。
特に、一人称視点の小説は主人公に感情移入する読者が多いですから、主人公を形作る情報は多ければ多いほど良い。
そして、序盤で無事に感情移入した読者は、主人公とともに物語を体験するわけです。
ですから、物語の終盤に主人公しか知りえない情報が出てきたりされると、読者は違和感を感じます。
私は、この違和感を感じたのです。
この違和感を削る方策は三つ。
挿話をなくし、それこそ成功も失敗もあったという記述だけで物語の中盤へ移ってしまうか、
どこかの挿話に失敗譚のあらましを記述する、
あるいは、挿話を一本追加する、のいずれかでしょう。
ただ、挿話を追加するとこの小説の場合、読者を飽きさせる恐れがありますから、
必然的に最初の二つが候補になります。
昨日の私の日記は、これを言いたかったんですね。