情熱のベクトルと勝者の饒舌

私たちは一人一人、同じものを違う脳みそで見ている。
でも私たちは、確かに見えたものを打ち消されたくはないから、見えたものについて語り合う前にためらいを生む。
私が垣間見た情熱は幻だったのだろうか。
飢えた獣のような情熱は、多分もうどこにもないのだろう。
冷めた情熱に魅力はない。
それを手に入れることがオトナなのかもしれない。
私はウブなのかもしれない。
でも私は、情熱のない自分に戻りたくない。
情熱を統率することと、情熱に水をさすことは違う。
水をさされた情熱が、再び温まるには時間がかかる。
水を差さぬよう、十分気をつけて私の情熱にも火をともさねば。


話は変わりますが、今日の全奏は楽しかった。
無遠慮にも、セビリアでグランカッサなんか叩かせてもらっちゃったので。
前半は危ういを通り越して落ちたのですが、後半は何とか入った、はず。ということは、もっとちゃんと曲の勉強をせねばならないってことですね。
又聞きによれば、打楽器の魅力は休符にあるそうです。
音を出すまでは何もすることもできず、音を出してしまってからは自由が利かない打楽器は、音の以前と以後をきちんと知らねばならないという意味なのでしょう。脈絡なく楽譜に書いてある音をそのまま出すのではなく、これまでの音の続きとして、そしてこの後のメロディのさきがけとして音を出さねばならないのでしょう。
あ、でも良く考えたら私、本番で叩かないじゃん。


ところで、最近の勝者は軽いと思うのですが、どうでしょう。
饒舌を通り越して軽口なのは、勝者の品格を貶めてるだけのような気が。
ましてや、水に落ちた犬を叩くのが流行の今日この頃、むやみと大きく出ることに得はないと思います。
早く寡黙な勝者という像を作らねば、誰もが、後に引き摺り下ろされる饒舌な勝者よりも語らぬ敗者を選んでしまうようになるのではないでしょうか。
それはまた、冷めた情熱とあいまって世界をつまらなくする一因になり、情熱が制御対象ではなく外乱要因に分類されることにつながっていく。そんな世界が生まれたら、思い切り鼻で笑ってやりたいので、ぜひとも情熱を冷まさずにいたいものです。