岩波文庫のカヴァレリア

公演の一ヶ月前にようやく原作(和訳ですが)を手にするというのも、なんともお粗末な話ですが、読んでいて色々と面白かったので日記にしようと思います。
カヴァレリア・ルスティカーナにはジョヴァンニ・ヴェルガが書いた小説版と、彼がジュゼッペ・ジャコーザと共に作った戯曲版、および戯曲版を元にピエトロ・マスカーニが作曲したオペラ版があります。もちろん、オペラを12月にやるのですが、小説が書き下ろされてからオペラが初演されるまで、実に10年の時間が流れております。
戯曲版は見たことも台本を読んだことも無いのでわかりませんが、小説版とオペラ版の間には、かなり大きな筋書き上の隔たりがあります。
オペラ版のあらすじはこんな感じです。

主人公のトゥリッドゥには恋人のローラがいたが、彼が兵役に行っている間に彼女は馬車屋のアルフィオと結婚してしまった。除隊したトゥリッドゥは、一度は彼女を諦めてサントゥッツァを嫁に貰ったのだが、結局ローラを忘れることができず、アルフィオの留守中にローラと逢引をする仲になってしまう。(ここまでが舞台の背景)
トゥリッドゥの不義を知ったサントゥッツァは怒りのあまりアルフィオにこのことを告げてしまう。かんかんになったアルフィオは復讐を誓うが、焚き付け過ぎたとサントゥッツァは後悔する。
ミサの後、トゥリッドゥの実家である酒場に乗り込んだアルフィオは、トゥリッドゥに決闘を申し込んで去る。
トゥリッドゥは死を覚悟し、母にサントゥッツァを託すと出かけて行く。
舞台上に残された母の元に、トゥリッドゥが殺されたとの悲鳴が届く。




一方の小説版のあらすじはこんな感じ。

主人公のトゥリッドゥには恋人のローラがいたが、彼が兵役に行っている間に彼女は馬車屋のアルフィオと婚約してしまった。除隊したトゥリッドゥは彼女を諦められなかったが、ローラの側はアルフィオとの結婚も神の思し召しだと受け入れており、トウリッドゥには素っ気無く振舞う。
ローラの態度を腹に据えかねたトゥリッドゥは、アルフィオ家の向かいに住むコーラ家に働きに出て、その家の娘であるサントゥッツァにしきりに言い寄る様子をローラに見せ付ける一方でローラを無視するようになる。彼のあまりのあからさまな態度をローラが問いただすと、今度はまたトゥリッドゥは逆にローラに対してしつこいほど挨拶を交わすようになる。
このことを怒ったサントゥッツァがアルフィオに告げ口をする。かんかんになったアルフィオは、トゥリッドゥが居る酒場に乗り込んで決闘を申し込む。
決闘の朝、トゥリッドゥはアルフィオに「自分は当初、この決闘で死ぬつもりだったが、行きがけに母の姿を見てしまった。神様は先立つ不孝を許さないだろうから、自分が決闘に勝つ」と言う。しかし、結局のところトゥリッドゥはアルフィオに殺されてしまう。

・・・原作のトゥリッドゥはそのままストーカーですがな。
小説全体にわたって、トゥリッドゥは全体的に格好悪く、衝動的な感じに描かれています。自ら三角関係を引き起こして自滅しているようにも見え、その割には一時とはいえ死を覚悟するなど、生への執着があるのかないのか、なかなか理解しづらいキャラクタです。
この小説、わずか12ページしかありませんので、手がかりはほとんど無いのですが、同じ本に収録されている他の小説などと読み比べることによって、彼らシチリア地方の住民たちの思考、行動パターンが見て取れ、トゥリッドゥのキャラクタを推理できます。



この、カヴァレリア・ルスティカーナを始めとする短編集は、ヴェルガがシチリアの無産階級に焦点を当てて描いたものです。現在でもイタリアは南北で格差があるといわれていますが、イタリア統一当時はおそらくもっと大変だったようです。統一イタリアの母体であるサルデーニャ王国や、民主的に選挙で合流を決定した中北部に対して、半ば強制的に併合された南部には封建主義が強く残り、無産階級は(少なくともこの本では)人間というよりはむしろ家畜に近いような扱いであったようです。その証拠に、というわけでもありませんが、登場人物たちの通り名に「蛙」だの「雌狼」だのといったものが使われています。基より人間と言うよりは獣の世界に近いのです。
彼ら無産階級の行動や思考は、軒並み衝動的、ないしは受け身です。
それもそのはず、無産階級だけでなく、小作人頭や地主に至るまで、百年以上変わらぬお天道様任せの暮らしであり、「将来は・・・」などといった遠い未来を考える余裕も動機も無いのです。せいぜい「来年は」とか「そのうち」といった程度しか頭に無いかのようです。そして、そういったその場限りの行動が巡り巡って自分のところに返って来ると、それは「因果」ではなく「神様の思し召し」として無抵抗に受け入れられ、原因と結果については何も考えられないのです。
わずかばかりの過去と未来、そして今生きている現在だけが、彼ら無産階級の全てであった、と言い換えても良いでしょう。
衝動的と見れる彼らの行動は、実は自分の過去にも未来にも考慮に入れるべきものが無いという点に立脚しているのであって、決して伊達や酔狂、あるいは知能の低さに由来するものでは無いのではないでしょうか。動物のようにあばら家に生まれ、家畜のように働かされ、役に立たなくなると放り出されて野垂れ死ぬ。そういう人生を歩む者たちにとっては、現在こそが選択の連続であって、過去ないしは未来を見ないがために、出来事の因果関係をあまり考えずに、起きた現象をあたかも運命であるかのように無抵抗に受け入れるようになってしまったのではないでしょうか。
カヴァレリアにおいても、兵役によって故郷での生活に時間的ブランクが生じてしまったトゥリッドゥと、故郷に居続けたローラとの間に認識の相違が生まれたり、あっさり決闘の合意が成立したり、老いた母親を見て死をためらうといったちぐはぐな言動は、そこから生まれたのではないでしょうか。


オペラにおいては、自分がまいた種であるのにあたかも運命に引きずられるかのような態度を取る主人公であることを自然に見せるために、サントゥッツァのような因果の側の出番を増やし、トゥリッドゥの行動はほとんど描かないようにしているのではないか、と私は考えました。



全く関係ありませんが、オペラのト書きには「決闘を了解したという意思を相手に伝えるため、トゥリッドゥはアルフィオの耳を噛む」というようなことが書かれています。小説版でも決闘の了解を確認するためにお互いに抱擁し、申し込まれた側のトゥリッドゥが相手の耳を軽く噛んだというくだりがあります。
殺気をみなぎらせつつも、近寄り、抱擁し、耳を噛む。想像するだに燃えるシーンです。