飲んだくれの恋バナ

今も昔も、酒の席に行くと恋愛話に花が咲きます。で、ふと頭に浮かんだのがこれ。

古今東西の芸術に恋愛が取り挙げられるように、恋愛は普遍的であると同時に娯楽の題材であると私は信じている。
親愛なるゲルハルトよ、私がここに記すのもまた、その普遍性と娯楽性とを君が感じてくれると期待してのことなのだ。
そのためにもゲルハルトよ、できれば酒をグラスに注ぎ、その香りと共にこれを読んで欲しい。
現実の恋の話を互いに聞き、語り、あるいは茶化すというのは、お互いに酔いが回っているうえでなければならないのだから。
(中略)
ここまで滔々と書く私に、あるいは君は問うだろう『なぜ別れたのか?』と。
しかし、考えたまえ。あるとき私は、私の心の中に彼女への誠実さを見出せなくなってしまったのだ。誠実な気持ちなしに相愛を生むなど汚らわしいだけではないか。情熱などかけらも感じさせない老いた夫婦でさえ互いに誠実に接するというのに、私は仮面を被って彼女と接していたのだ。


他に理由がいるだろうか?


あるいは彼女の望む仮面を被り続けるのも道の一つだろう。しかし、私には耐えがたかったのだ。
私の顔が仮面に隠れていると彼女が気がつかないのであれば、それは不義の私と哀れな彼女の共存であるし、気付いていてなおそのことを口にしないのであれば、それはなお恐ろしいではないか。不義の彼女と哀れな私の共存なのだから。
(フォン・フンバルト・ヘガデルナー「往復書簡」より)


フンバルト・ヘガデルナーは架空の人物です。ぐぐってもでないはず。