理系とか文系とか

面白い日記を見つけたのでついトラックバックを打ってみたり。
私個人は相当鈍い人間らしく、どうも理系と文系という区別がよくわからない。
単に専攻の違いという以上の差が存在するそうなのだが、はっきり言ってそんなものはないと思う。
私が通っていた予備校の先生は「理系は論理的で文系はそうじゃないんだ」と言っていたけれど、論理的に思考できない裁判官など論外だし、どこぞの宗教団体でサリンをぶちまけちゃったのはどう見ても化学や医学の専門家たちです。
……というのは極端な例かもしれませんが、仮にそういう分類を適用したら、専攻とは相関しなくなってしまうのです。
理系を「数学や理科が比較的得意な人」としたらどうでしょう。そうすると、実は中学、高校の段階では理系文系の区別はなくなってしまうのです。というのも、高校ぐらいまでの学問と言うのは、訓練しだいでどうとでもできるレベルなのです。……いや、嘘じゃないです。よく相性云々言う人がいますけどその手の相性と言うのはニンジンやピーマンを嫌悪する子供程度の相性でしかないのです。だってほら、高校の成績のいい人ってどこかの科目が極端によかったり悪かったりしないでしょ。
だからといって、勉強のできるやつ、できないやつで文理を決めたら、日本中のまじめな法文の学生から石が飛んでくる。
うだうだ書きましたが、詰まるところ専攻の枠を超えて「人間」を理系文系で区別しようとすると必ず無理が出てくると思うのです。これが学問の方向性、すなわち科学的知識を専門的に要する分野を専攻する人を理系、などと分類すれば全然違和感はないのですけどね。
結局のところ理系文系の分類に有意義で明確な差がない以上、これを土台に互いがコンプレックスを感じる理由もまたなくなってしまうのです。ぶっちゃけなにを気にしてるんだと。
なんでこうも親の敵みたいに理系文系という区別を取っ払いたがっているのかといえば、私が棒をぶんまわしている某オペラ団体には、老若男女国私文理ごたまぜの多彩な顔ぶれで悪い意味で多彩な音を奏でているわけですが、巷間、ないしは少なくともリンク先で言われているほど文理の区別は感じられないのです。
相性と専攻に相関がある気もしますが、それほど強くは感じられない。というか、日ごろ私はそういうことを意識させられたことはない。無論、はばかりなく女の子同士でいちゃつくシーンを見ないでもないですが、それへの参加はマストではないし。街中を歩いていれば普通に見るし。じゃ、うちの団体が男子女子や理系文系で真っ二つかといえばそうではない、はず。直近ではこのオペラ団体がそうでしたが、それ以外にも私が所属していたグループでも類似の傾向が見られました。
話がそれましたが、むしろ私(たち)が恐れるべきは、相性のよしあし、あるいは他者と同質(あるいは異質)であろうとする意識からその枠組みの中で自縄自縛に陥ることなのではないでしょうか。
なにしろ、人類というのは60億からなる離散分布なのです。どんな枠を作ってもそこに当てはまらない人など、山ほどたくさんいるのです。
だから、ある集団の中で例外や典型であることを嫌う理由はないし(程度や分野の差はあるけれど別の集団の中にも例外はいるわけだし)何かハンディキャップを感じるものがあっても、それを解消*1する手段は必ずしも一つや二つではないはず。もちろん、不寛容や無理解という人類が代々引き継ぐ不思議な特性が解決への妨げとなるわけですが、それらの顕著な人たちは回避したって何とかやっていけるわけです。放置はよくないですが、優先する必要はないというほどのものですけど。
まーなんにせよ、他人との付き合い方は一通りではないし、同一の他人に対していつも同じ付き合い方をする必要すらないと思います。普段話してない人と飯を食べながら長話したりするわけです。私は人見知り口下手ものぐさと三拍子そろっているので腰が重いですが。
国内にいる限りはものぐさでいてもなんとかなっても、そんな私でさえひとたび海の向こうに行ったら、互いの特性を学びつつうまいこと付き合っていかなきゃならんわけです。向こうに行ったらまず同胞を探す!というのが一番最悪で、それをやらかしたが最後、異文化との交流など夢のまた夢で、せっかく外国に行ったのに観光旅行するだけになってしまいます。
……何の話だっけ。
あ、そうだ。私の知ってる限り、世の中はそんなに生き辛いものじゃないし、つまらなくもない。そんなことねぇと思っている人は、きっとどうでもいいことをおかしな方向へ深く考えすぎているだけじゃねぇのって書こうとしてたんでした。もちろん、極端に言えばでしょうけど。

*1:compensateって言ってもいい