どうしてこうなっちゃったのかねぇ

ニュースを見ながらどうしてこうなっちゃったのかねぇとつぶやくことが多くなりました。
まー明るい話題もなければバラ色の未来もないという前提に立つマスコミが、一発ネタ的なほのぼのニュース以外を政治と金やら経済と財政やら何やらとどんよりしたニュースで多いつくしては、犯人をフクロダタキにすることにしか生きがいを感じられていないんですから仕方がありません。もちろん、そういう形式の報道を通じてしか世間を知ることができないわれわれも、その影響をもろに受けて個別に似たような行動に走る傾向を持ってしまうわけです。
そして、ふと立ち止まっては「どうしてこうなっちゃったのかねぇ」とつぶやくわけです。
もしこの国が世界一平和で豊かでなければ、こんな息苦しい社会なんかさっさと飛び出したい、と最近思います。あるいは、食っていくために候補からは外れますが、社会様と隔絶してどこかに隠遁したい。
以下個別に。


法に則って死刑執行命令にサインを入れた法務大臣を死神呼ばわりする新聞も新聞なら、いちいち目くじらを立てる大臣も大臣。中学生並みの記事を書く能力しかない新聞社にセンスがなければ、死神のコスプレもせずに記者会見に臨む大臣もウィットと言うものを知らない*1


配送所から勝手に拝借してきた鯨肉を喜々として見せびらかした30代のオッサンが、記者会見からひと月で逮捕されたらしい。警察と考案のメンツにかけて起訴するだろうから、法律の誤認なら有罪は確定。違法性を認識しつつ故意に盗んでいたのなら執行猶予はつかないんだろうな、と先走って最高裁の判決を予想。何でわざわざトラックターミナルから盗まねばならなかったのか、告発すれば済むだけじゃないのか、現物を抑えたとしてなぜ警察にすぐ届け出ず、記者会見を開いたのだろうかと考えたところ、やっぱりこのグリーンピースの人たちは自分の手柄をアピールしなければ気がすまないのだ、という予想にたどり着く。でも、自分の正義に基づいた行動が必ずしも社会の正義と一致するとは限らないのだとか、そういうことにいい年して気づかなかったのだとすれば、これは逆に驚きである。いい年して子供じゃあるまいし。むしろ誰もが自分の常識と社会の常識のギャップに躓いているからこそ世間はままならないのだ*2


秋葉原でおぞましい通り魔を犯した犯人は、やっぱりオタクであると言う側面ばかりにスポットが当たっている。でも、犯人はままならない世間との関係から生まれたフラストレーションからの爆発から凶行に及んだのであって、オタクだからではないと思う。その証拠に、模倣犯のなりそこねのような予告が山ほどたくさん出ているけれども、送り主はどれもオタクではない。つまり、最初の一撃はオタクによるものだとしても、潜在的な犯人は社会全体に蔓延していると見立てることもできるのだ*3


秋には院試。願書を書いて教科書を読む。夜に日を接ぐ日々。ああ、どこか田舎へ一人旅に行きたい。夏休みに一日くらい、当て所ない旅を自分に許せるだろうか。


明日はマノン期最後の土曜練習。明後日は通し練習。自信はないけれど恥ずかしくない結果だけは残したい。私に残された時間はあまりないし、後輩にしてやれることは何もないけれど、彼らが何かを感じて学び取ってくれればと思う。
なんかこれだけずらずら書いているとなにか致命的な事実誤認を見落としたまま日記を書いている予感がして仕方がない。常に自分が正しいという前提で書いていないことは、救いだろうか。

*1:どこぞの大新聞をまねて。「このブログは無名の一個人がテキトーに社会を鋭く批判しているものであり、誹謗中傷の意図はまったくありません」。

*2:どこぞの大新聞をまねて。「このブログは無名の一個人がテキトーに社会を鋭く批判しているものであり、誹謗中傷の意図はまったくありません」。

*3:どこぞの大新聞をまねて。「このブログは無名の一個人がテキトーに社会を鋭く批判しているものであり、誹謗中傷の意図はまったくありません」。