オネーギンこぼれ話と筋肉痛

椅子に座ってさあ仕事仕事と前のめりになると、ベルトに何かが乗っている・・・
手を振ると、二の腕付近から想定外の応答が返ってくる・・・
というわけ*1で、一念発起して大学のプールに行ってきました。体が痛いです。突然の思いつきのくせに張り切りすぎました。
今日はそのネタで引っ張ろうかと思ったのですが、良く考えたらあさって本公演なので、今日はオネーギンのトリビアについて。


チャイコフスキーが原作のプーシキンが大好きであることは、ちょっとは知られた事実だと思います。某歌劇団の関係者の人たちにとってはさすがに既知ですよね?!
他の作品は知りませんが、少なくともオネーギンに関しては、彼のこだわりようは凄いです。無論、原作を知らずにオペラの舞台上で起こっていることだけを見ていると退屈であるという悪評こそありますが、そういうのは現代でも原作付の映画やドラマ、アニメを作るに際して必ず付きまとう、どこまで原作を再現するかという問題*2を思案した結果だと私は思います。
さて、チャイコフスキーがどれくらいこのオペラにお熱だったのかを語るには、きちんとロシア語を理解したり原作を理解したり音楽の勉強をしたりせねばならず、多分マジメに考えたら一本の論文になってしまうので、ここではNo.14、パーティのシーンで家庭教師のフランス人であるトリケが、ヒロインであるタチャーナに祝いの歌を余興で歌うシーンから抜粋してお伝えしようと思います。
なんでもないシーンにまで細かい作りこみをしているという一例です。こういうのに気づくと私は燃えてしまうのですが、メラメラした状態で語ると思いきり引かれてしまい、毎回悲しい思いをしています。どこかに同志は居ないのか?!と思ったり思わなかったり。


閑話休題


トリケさんがお祝いの歌を歌うくだりは、こんな感じになっています。

まず、パーティに出席しているほかの女の子たちがトリケを読んできます。
ムッシュー・トリケ!どうか歌を歌ってくださいな!」
呼ばれて飛び出たトリケさんはこう言います。
「喜んで歌いましょう。でも彼女はどこです?彼女が前に居てくれないと困ります。なにしろ、彼女のための歌ですからね!」

ここまで10小節くらい。なんでもない余興のシーンの、しかも出だしであるにもかかわらず、ここには彼のこだわりぶりをうかがわせるものがたくさん入っています。
まず、最初の娘たちがトリケを呼ぶ台詞。フランス人の家庭教師なので、呼ぶ側もフランス語で呼んでいます。
「Monsieur Triquet, Monsieur Triquet. Chantez de grace un couplet.」
この台詞そのものはごく普通なのですが、これに振られた音符がちょっと変。
「Chantez de grace un couplet.(どうか歌を歌ってください)」
のところ「どうかお願いします」という意味の「de grace」、最初の「de」にはアクセントが無いので、普通のフランス語であるなら短く発音するべきなのですが、楽譜どおりに歌うとその前の「Chantez」と同じ長さになってしまい、フランス語を聞きなれた人ならちょっとマヌケに聞こえるはず。
卑近な例を挙げるならば、日本に来た留学生が「おねがーいしまぁす」って言ってる感じでしょうか。つまり、女の子たちが一生懸命覚えたフランス語でたどたどしくお願いしているように見えるよう、この部分は作曲されているのだと、私は思っています。
それに対してトリケさんはロシア語で返事をするのですが、実は「彼女が居ないと」と言っているつもりが、人称代名詞を間違えて「彼が居ないと」って言ってたりします。トリケさんも覚えたばかりのロシア語をうまく使えていないようです。


非常に細かいっちゃぁとっても細かいです。話の本筋とはほとんど関係ない1シーン。わずか10小節すら手を抜かないチャイコフスキーってすげぇと思っていただければ幸いです。

*1:ちょっと大げさな表現ですが、このままだとそうなりそう。

*2:限られた時間内で、原作を全て再現するのには困難が伴う。大抵は原作のエピソードを適当に削るのだけれども、オネーギンは原作が長すぎるのであらすじだけでも3時間のオペラでは追いきれない。かといって、時間内に収まるようあらすじそのものを改変するのを良しとしなかったチャイコフスキーは、原作の重要なシーンをつないで背景などを捨象してしまい、原作を読まないと背景がよくわからないものになってしまったのだと私はおもう。