九マルカは高すぎる

「九マルカを支払うには高すぎる。ましてや夜ともなれば」
そう私はつぶやいた。
「そんな!」
横を歩いていた彼は、愕然とした様子で立ち止まってこちらを向いた。
「なんて友達がいのない奴なんだキミは!」
「どういうことだい?たかだかどこかのブログで拾った11語*1じゃないか!」
私の疑問の声に対し、彼はとうとうと自分の推理を披露した。
「なんだ、君の言葉じゃなかったのか。危うく僕は君を誤解するところだったよ。いいかい。マルカという単位はボスニア・ヘルツェゴビナの通貨、兌換マルクのことで、これを現地語読みに直した表現がマルカだ。つまり、その台詞の主、ブログとやらを書いた人物は、日本人の旅行者で若者、おそらく学生でボスニアに滞在して数日経過した人物ということになる」
「マルカというたった一語から、どうしてそこまで言えるんだい?」
「まず、発言者の国籍についてだが、少なくとも、英語表記ではドイツマルクと同様『mark』というつづりで表記されるから、英語圏の人間ではない。にもかかわらず英語表記の中に現地の表現を混ぜ込んでしまうおっちょこちょいをやらかすのは、たいてい日本人だ。そして、1マルカは2009年8月のレートでおおよそ70円だから、9マルカというのは630円程度ということになる。日本とボスニアの物価の差を考えればボスニアではかなりの額であっても日本円換算で630円をケチるなんて、あまり経済力のない人間に違いない。つまり、確たる経済基盤を持たない学生のような身分の人物と考えられる」
「それが滞在数日目の旅行者だという根拠は?」
「その地に長く住んでいる人物ならば、商品の価格についての知識があるわけだから、わざわざ安い高いについてコメントを残すことはないだろう。高いと思う店には寄り付かなければいいのだ。ということは、その地に滞在して長くないために別の店という選択肢を選べない、旅行者だと言える。一方で、発言者は高いという認識を持っているわけだから、ある程度現地の物価についての知識が蓄積された後だということになる。だから滞在して数日だ」
「ふむ。仮にそれが事実だとして、それが何で友達がいのないという結論にたどりつくのかい?」
私は彼の頭脳の鋭さに感心しながら、先を促した。
「それには、九マルカを何のために支払ったのかということに頭をめぐらす必要がある。ボスニアの物価を考えた場合、実は九マルカというのは結構微妙な値段なんだ。というのも、この国は農作物の価格は安いのだけれど、加工品の価格は軒並み上がってしまうんだ。たとえば、この国ではキュウリ一本が0.06マルカで4円くらい、トマト一個が0.1マルカで大体7円だ」
「まるでレシートを見てきたみたいだね」
「余計なことを言うんじゃない。とにかく!スイカに至っては軒先に山積みにされてキロ当たり0.5マルカ、35円で量り売りされているくらいの国なんだよ!果肉が赤いくせに思ったより甘くなかったがな!」
「・・・それで、9マルカはどうなったんだい?」
やや話が本筋からずれているように感じたので、私は興奮している彼を引き戻した。
「おお、そうだった。ところが、加工品ともなると突然値段が上がってしまう。たとえば、3本入りのソーセージが安くても1.8マルカ、126円以上する」
「安いじゃないか」
「日本円に換算して、ならな。セールとかをやっているわけでもない普通のスーパーで、キュウリ10本あるいはトマト6個よりソーセージ1本のほうが高いなんてことは、日本ではまずないんじゃないか?」
「そういうことはないだろうね」
「だろう?つまり、9マルカで高いということは、この国の本来の物価ではもっと安くあるべきものが極端に高いということを意味している。しかし、加工品の物価は日本から見ればまだ安いとはいえ、現地の物価で考えれば割高と感じられるのはごく自然なんだ。つまるところ、彼が支払ったものは、本来なら安いはずのものだってことさ」
「それが何か、君にはわかるのかい?」
「そのヒントは、後半の『ましてや夜ともなれば』にある。夜、と時間を区切っているということは、夜間に消費するものだ。しかも『night』ではなく『evening』としているからには、深夜ではない。一般にその時間帯に消費するもので、ボスニアでは本来ならば安いものとくれば、一つしかないだろう」
「酒だ!」
私は叫んでいた。
「ご名答!」
彼は実にうれしそうだ。
「酒だよ。台詞の主は酒を飲んだんだ。ボスニアのビールは2リットルのペットボトルでも2マルカ程度しかしない。それなのに彼は9マルカも支払った。ということは、彼は現地の酒ではないもの、ないしはカクテルのようなものを飲んだに違いない。そう考えれば9マルカも支払うはめになったのも納得がいく」
「ふむ。これで、我々の前には、夜分にボスニアのどこかの酒屋で高い金を払ってまで酒を飲んだ日本人の旅行者の青年が現れたことになるけど、それがどうして『友達がいがない』という結論になるのかね?」
いよいよ、話は大詰めのようだ。
「高い店と分かったら、とっとと別の店を探せばよいのに、彼はそうしなかった。なぜか?連れがいたからだ。それも、店を変えるほどの機動力に欠くぐらいだから、それなりの人数がいたに違いない。しかも、現地の物価で高い店なのだから、地元の人間はその集団にいなかった、つまり旅行者仲間同士だけで行ったということになる。じゃぁ、その集団が飲みに行った目的は何か?」
「親睦のためじゃないのかい?」
「それだったらわざわざ高い酒を飲んだりはしないさ。安酒でも買ってきてみんなで回し飲みして大騒ぎすればいい。改まって店に行くということは、もっと大切な、たとえば歓迎会とか、送別会とか、そういうことじゃないのかな?」
「なるほど」
「多分、送別会じゃないかな。台詞の主はその地に滞在して数日しかたっていない。そこまで親しくもない人物の送別会にそれだけの出費は見合わないと、台詞の主は思ったんだろう。ケチケチすることはないのに、と思うがね」



九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

*1:A nine marka payment is no joke, especially in the evening.